冷凍とはすさまじく、氷づけにされたマンモスの肉体は4万年もの間保存され、現代にその姿をあらわした。
たとえば氷づけが冷凍庫、マンモスの肉体が牛肉に置き換わったとしても問題なく成り立つだろう。
4年前の牛肉は僕の目の前に突如としてあらわれた。
2014年11月、愛知県のある家屋にて
我が家の冷凍庫が詰まりに詰まっていて冷やしたいものが冷やせなかったので、冷凍庫の整理をしていた。そしたら奥底から怪しげな牛肉が出てきた。
消費期限は2010年の2月。期限が切れたものはたちどころにおばあちゃんの手に渡ることになっているのだが、今回ばかりはさすがに厳しいと(僕が)判断。捨てることになったので、とりあえず日なたに置いておいたら晩御飯の時間になっていい塩梅に解凍されているではないか。
これがおばあちゃんに見つかった。何食わぬ顔で牛肉を台所へ持っていく。僕は「それヤバイよ」と言ったが、問題なく調理をする表情だ。さすがにまずい気がしたが、思えば相当危険なものを食べていた時も、体調を崩したことなんて全くなかった。
おばあちゃんのゆるぎない自信と歴史に裏付けされた冷凍のポテンシャル、そしてなにより肉の塊へのプリミティブな欲求が、僕を台所へと駆り立てた。
肉の中の色は鮮やか
4年前の肉を前に不安の色を隠せないでいると、おばあちゃんは「にんにくと一緒に焼けば大丈夫」と言ってきた。
おばあちゃんが言うからにんにくと一緒に焼けば大丈夫なのだ。ゆるめの根拠をもとに自分に暗示をかけていると、おばあちゃんは冷蔵庫から取り出したにんにくを次々と三角コーナーに葬っている。
それ、大丈夫なのか。にんにくがやばいんじゃないのか。
なんとかぎりぎりの状態のにんにくを確保。次に肉の調理に取り掛かる。
調理法は「フライパンで焼く」だ。火がよく通るように薄めにスライスしていく。ここで光ったのはおばあちゃんの躊躇のない包丁さばきだけではなかった。
切り開かれた肉は、古びたじゅうたんのような外見からは想像できないほどに鮮やかな断面を見せたのだ。
多少熟成された感じの生ハム的な色だが、十分にうまそうだ。4年という月日に恐怖していた自分は虚空へと消え、食欲がみるみるわいてくる。ものごとを外見で判断してはいけないというのはまさにこのことだ、という風にどんどん思考がポジティブになってくる。
おばあちゃんも、カメラを構える僕を見てもこみちの真似をするくらい余裕だ。おばあちゃん曰く、「人間の脳も手術をする時は冷凍するくらいだから、肉なんて全然平気」らしい。
脳を冷凍!?僕が知らない間にずいぶん科学は進歩しているが、その脳の話は冷凍がすごいということなのか、それとも古い肉を食べて何かあっても脳を凍らせればいいということなのか。後者だったら平気じゃないぞ。
バーベキューのときの残り物みたい
切り終わったら、しばらくフライパンの上で唸る牛肉を眺める。
牛肉のいいにおいが立ち込めて、腹ぺこの僕の胃も牛肉の唸りに共鳴してきた。先にフライパンに入れて焼いていたにんにくがいい感じに焼けていたので先にいただく。
痛みかけのにんにくで口の中をしびれさせていると、牛肉が焼きあがっていた。
正直にいうと、味はちゃんと肉らしくてそれなりにおいしかった。ただ、肉の組織がぎっしりしていて、食感はゴムに近い。長く冷凍されてうるおいを失った肉の身は高野豆腐のそれだった。
バーベキューのときにみんながお腹いっぱいになってから焼かれ、誰にも食べられないまま隅のほうで熱風に煽られた肉は確かこんなふうだ。
あれはたいてい満腹のときに胃に放り込むのであまりおいしく感じないが、腹ペコのときにほおばると実はうまいということだ。
4年前の肉の味と、それが無事食べられたという感動が体全体に染み渡る。きっと発掘隊がマンモスを発掘したときもこんな気持ちだったに違いない。冷凍庫で眠っていた牛肉、捨てなくてよかった。
4年前の肉は食べれる
4年前の肉はもうだめかと思ったら、意外とうまかった。次の日腹を壊してトイレにこもることもなかった。
今回はその道のプロ(おばあちゃん)が調理を担当したので結果的にはうまくいったが、大幅に消費期限の切れた牛肉はたとえ冷凍してあったとしても食するにはリスクが伴う。
ただ、そこにはを未知なる世界を確かめたいというロマンがあることは明らかだ。身の危険を犠牲にしても、それを手に入れたいと思う。その点では極寒地でのマンモス発掘作業となんら変わりはない。
食べてみたい人は自己責任で。僕は一応おすすめはしません。
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